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この10年でもっとも悲しいニュース [本/雑誌/文筆家]

so-netのWeblobにアクセス解析の機能が加わって、どんな単語でWeb検索されて記事に辿り着いたのか、キーワードランキングが分かるようになった。で、昨日から急に増えたキーワードが「休刊」「エスクァイア」。それで検索してみるとこんな記事が。
これは衝撃的だ。

「エスクァイア」日本版が休刊へ! さらにコンデナストの新雑誌も......

ぼくは以前、エスクァイア日本版のすぐ近くで仕事をしていたからよく分かるけど、エスクァイア日本版ほどマーケティングがうまくいっていて、最高のクオリティを保ちながら効率良く編集されている雑誌はないと思っていた。広告主からの信頼も厚かったし、読者のロイヤリティも高い。そのまま続けていたら、これからも書店の棚の、真ん中ではないけど、大事なポジションに控えめに並んでいたはずだ。それがなぜ、こんな噂が喧伝されるようになったのか。ここから先は、場の空気が読めないことで、逆に何度も土壇場を乗り越えられた橋場の私見なので、そういう無邪気な見解として読んでほしい。ただの思い出話なので記憶違いもあるかも知れない。会社から離れて5年以上経つので、現状はまったく分からない。

で、はっきり言うと、今日の問題は経営者の責任であることは火を見るより明らかだ。

「Dear」という女性誌で大失敗して失脚した前社長は、ぼくには疑問だらけの経営者だった。例えば彼は、会社のミッションは「マーケティング&パブリッシング」だと公言していたが、それはミッションではなくミッションを実現するための方法論だと思うので、そこからして議論が噛み合ない感じだ。たぶん、ミッションとは、雑誌が実現しようとしている物事が、この世の中に必要と認められる社会性や人格みたいなもので、会社が儲ける仕組みではなく、ましてや英語まじりのチャッチフレーズでもない。彼はマーケティング畑から来た人だったけど、雑誌にはマスマーケティングの方式を適用できる分母はないことは明白だが、それも見えていなかったのではないか。雑誌には雑誌のマーケティングがあり、エスクァイアはもっとも洗練された戦略と戦術を持っていた。実際にはそれが、説明可能な言葉になっていたわけでもなく、方程式のようなものが明解になっていたわけではない。それでもこの雑誌に関わる者は、ひとりを除いて、そのマーケティングを理解して、それにふさわしい行動をとっていた。しかし前社長は多くを否定するだけだったように思える。雑誌は生産されるものではなく、編集して製作されるものだ。情報産業という言葉があるが、雑誌づくりは、実際には情報産業でも製造業でもなく、ホテリアの仕事に近い究極のサービス業だ。それに製造業の方法論を持ち込むな。

当時会社は、それなりにいろいろと問題はあったかも知れないが、それはどんな会社にもあることで、基本的には順風満帆で航行中だったように見えた。前社長はその、やっと安定した航行中の船に後から乗り込んできて、すべてをメチャクチャにして、とっとと下船したわけだ。ボートも漕げないヤツが大型船を操縦しようとしていたのだ。あきらかに船の舵の切り方を間違えているのに、本人が気にしているのは甲板の上のテーブルをどうレイアウトするかだけだった。知らないうちに船員は2倍近くに増えていていた。固定費も嵩んでいたと思う。そのやり方に嫌気がさして貴重な人材が何人も流失した。彼が逃げた後、ダメージは深く残り、船は沈みかけている。なぜそんな人が経営者になったのか。これはホントにナゾだ。親会社や株主はどうして看過していたのか。みんな身内だったからだろうか。それとも親会社のダメ役員の天下り先だったのか。結果的に、彼の在任中のとんでもない負債と不信感を、残った者たちが引き受けなければならない。まあ問題の原因を外に求めるのは簡単で、仮想敵国をつくるのも意外に簡単だし、本当はそんなに単純なことではないのだとは思う。しかし、そんな前社長に退任後、戻る場所が用意されていたというのも驚きだ。大企業はスゴいな。いやマジでスゴい。

エスクァイアのアメリカ版は、アメリカ合衆国が未曾有の不景気に沈んだ大恐慌時代に創刊された雑誌だった。誰も下を向いて歩くような時代に、明るく、ファッショナブルで、文化的にクオリティの高い誌面をつくり、創刊当初はこんな不景気の時代になんて能天気な、と否定的に見る者たちもいたようだ。しかし、その誌面はアメリカの男たちに、恐慌を乗り越える教養と、より美しい暮らしを送ることに怯まぬ勇気を与え、数々の文学作品が生まれ、上質なアメリカ文化の牽引役として戦前、戦後の人々の心を支え続けた。暗い時代には、誰も一様に暗くなるのではなく、明かりを灯す者が必要なのだと歴史は教えてくれる。たとえ微力でも、それが突破口になる可能性がある。それが文化の力だ。

まさに、まさに今この世界の、この日本の先行き不安な状況下で、人々の顔を上げさせて、文化をあきらめず、美しく装い、美しく暮らすための教養を提供できるのは、エスクァイア日本版のような雑誌だと思う。テレビには無理だ。新聞にも無理。LEONにも無理。dancyuにも無理。BUBUKAにも無理。今こそエスクァイア日本版の真価が問われる時代なのに、その可能性を奪おうとしている者がいる。真価が分からない者がいる。それも日本経済を動かすメインエンジンの、東証一部上場企業の上層部にいる。それが残念でならない。ちなみにエスクァイア日本版の版元の親会社は、TSUTAYAなどを傘下に持つCCCカルチュア・コンビニエンス・クラブだ。

ぼくが知っているカナダの美術雑誌は、いくつかの財団の助成を受けて刊行していた。もちろん広告も入っていたけど、その雑誌を発行することが文化的な活動と認められて、文化財団が金銭面で助けていたわけだ。それは確かに特殊なケースで、日本では難しいとは思うけれど、雑誌を発行する会社の株主や投資家は、単なる数字だけでなく、その雑誌の文化発信によって引き起こされる経済活動や、人々の教養という無形の利益にも眼を向ける見識が必要なのではないか。もし数字を追求するなら、先の先まで読み込んでほしいと思う。製造業と同じように考えないでほしい。雑誌の材料は紙とインクではない。人だ。人の知識と知性が材料なのだ。それはお金を払えば簡単に仕入れできるものではない。人材と知恵が失われたら、もう復活は不可能だ。実際には、取り返しのつかないことは、なかなかないものだが、今回は本当に取り返しがつかない。死んだ者は生き返らない。

ぼくは、一生を10回送れるくらいの大金持ちになりたいとは思わないけど、今は心底そういう人になりたいと思う。それで、あり余る金で上質な雑誌に投資して、投資家としてその雑誌が誤った方向に向かわないか、指針に合わないことに注力していないかを、金額の数字だけの利益に流れがちな現場を戒める眼になりたい。そうしないと、日本人の教養は、快楽と金儲けの渦に溶けてしまう。学校教育がテストの競争と勝ち抜き合戦になり、家庭教育が家族関係とともに崩壊して、地域教育も失われ、ネットは玉石混淆、テレビが娯楽だけのために奔走する日本で、ぼくたちの教養を支えられるのは出版しかない。ぼくはそう信じている。もう手遅れかも知れないが。

まだ公式発表でないことだけが救いだ。海底自摸に逆転の当たり牌が残っているかも知れない。


教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

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  • 作者: 竹内 洋
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2003/07
  • メディア: 新書



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アメリカ

橋場さんコンニチハ。先日久しぶりにお会いして、新事務所にお伺いしたいなぁと思っている矢先にとんだことになってしまいました。。。橋場さんの「この10年でもっとも悲しいニュース」拝読しました。的確な分析で感服しております。また非常に共感を憶えるし、きっと思いを同じくする人は多いはずなのに、なんでこうなってしまうんだろうと不思議で不思議で。日本という国が本当に心配になってしまう今日この頃です。マーケティング万能幻想も霧散しつつあるいま、「結局なんにもなくなった」みたいなことにならなければいいなと心底願っております。僕自身、草の根の一本として、雑誌文化や本質的に美しいものを守れるお手伝いができればと考えています。
by アメリカ (2009-03-03 17:26) 

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