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0. 空間への招待 [デザイン/建築]

このブログで公開している01〜14の建築についてのコラムは、1986年秋にNHK教育テレビ(当時)で放映された「NHK市民大学 空間を造る ~現代建築への招待~(講師:鈴木博之氏)」のテキストの一部と、橋場が書き留めた当時のノート、メモを再構成したものです。一部の記事はオリジナルで書き下ろしています。

印刷物や他のサイトなどで引用・転載する場合は必ず「底本(NHK市民大学テキスト)」を参照して本文批評を行い、著作者の許諾を得てください。

固有名詞は確実に「検索」できるように、日本語、英語または現地語で表記しています。それぞれの言葉で画像検索などを試みてください。

文中に誤りがあればコメント欄にてお知らせください。確認の上、修正・訂正します。


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1. アール・ヌーヴォー [デザイン/建築]



都市の文化としてのアール・ヌーヴォー

 19世紀末のヨーロッパは、文化を都市に表現した時代だった。宮廷に、そして田園に美が見出されるのではなく、美はすべて都市に注ぎ込まれたかのように街路に溢れた。産業革命が工業力による富をもたらし、その富は新興の中産階級の住む都市に流れ込んだのである。そこに、宮廷文化に替わる都市文化が生まれた。

 都市文化の最初の自己表現として、アール・ヌーヴォー(Art Nouveau)はきわめて正直だった。一般にアール・ヌーヴォーの芸術は、うねるような新奇な曲線と平面的な装飾性にその特徴があると言われる。世紀末のヨーロッパを華やかな様式で彩ったアール・ヌーヴォーの建築もその例外ではなかった。建築は空間を含み込むものだから、世紀末的な平面性ということは、ここでは表層のことになる。

 なにゆえアール・ヌーヴォーの様式がひとときにヨーロッパに広がり、ほとんどあらゆるジャンルの芸術に飛び火したのか。そしてなぜ短命のうちに燃え尽きて消えてしまったのか。この秘密を解く鍵は、アール・ヌーヴォーが持っていた二つの特徴、平面性と装飾性にあると考えられる。

 アール・ヌーヴォーの示す平面性と装飾性には、その芸術の出自を問わぬ一種の匿名性が漂っている。その装飾がそれまでの歴史的なモティーフから離れた、一種抽象性を備えたものであったことも、匿名性のひとつと見ていい。

 そうした匿名性は、身分に縛られた貴族社会の宮廷文化が、一代で富を築いた人々や、才能によって自らを認めさせる芸術家たちの手になる都市文化に移っていった時、まさしく都市の表現として求められたものだった。

 19世紀から20世紀に至る間に、都市は膨張し続けていた。例えばパリ(Paris)では、フランス革命で人口が10万人ほど減少していたものが、1801年には人口55万人、1851年にはそれが倍増して105万人にまで達している。この人口の上昇は19世紀後半にはさらに加速され、1900年には人口271万人に至る。都市が人口を吸収するのは理由がある。人々が農村に住むことをやめて都市に集まるのは、社会構造が都市的になったからだ。それは産業革命がもたらした社会構造の変化であったと言っていい。

 産業革命の先進地、英国のリヴァプール(Liverpool)の場合、その変化はパリよりも早く、ずっと激しかった。産業革命が始まる1774年の時点では、リヴァプールの人口は3万4407人だったが、港湾都市としてのリヴァプールの重要性が飛躍的に高まりだしてから人口は急増し、12年後の1786年には4万1600人、1790年には5万5832人、1801年には7万7650人となった。しかもこの町の港には常時平均約6000人もの水夫たちが停泊中の船舶に起居していたと言われ、現在ではリヴァプールの一部となっている郊外にも5000人近い人口が暮らしていた。こうした人々の数を考慮するならば、1801年、既にリヴァプールの都市人口はロンドン(London)に次いで英国第2位の規模になっていた。

 多くの都市で都市改造が行われ、施設が新たにつくられ、巨大化していった。郊外には住宅が建ち並び、工場やオフィスがつくられ、都市と都市を鉄道が結びつけ、外国との間に航路が賑わいを見せ、そのための駅舎や港湾や倉庫が生まれた。つまり、私たちの住む現代都市の原型がはっきりと姿を現したのである。

 都市というものが、産業革命の波を背後に背負いながらも急成長していく時、そこはさまざまな夢と思惑を抱いた人々の集まり住む場所となる。そうしたさまざまな思惑が交錯する場である以上、都市にはその文化を花開かせる場、盛り場が出現する。  盛り場こそ、都市の中の都市と言っていい。多数の人々が集まり、複数の目的がそこで果たされようとする場所が盛り場なのだから、そこにこそ都市はもっとも都市らしさを発揮する。農村や小さな集落に盛り場がないわけではないが、そうした盛り場は特別の市の立つ日や、お祭りの縁日などの時に生じる場合が多い。つまり、それは一種の祝祭を契機として生じる都市性の産物なのである。盛り場の賑わいの中には、多かれ少なかれ、日常の生活を離れた、非日常的な祝祭の気分が漂っていた。社会全体が身分制度に縛られ、生活が地縁・血縁のしがらみに束縛されていた時代には、盛り場の持つこうした祝祭的な性格は、人々の生活に変化を与え、息抜きを与えてくれるものであった。そうした盛り場の賑わいの中で、人は誰とも知れず、また誰をも知らぬ身軽さで、束の間の自由を享受することができたのである。

 そこから、盛り場の持つ第二の性格、すなわち匿名性という特徴が現れてくる。盛り場の中では人は、群衆の一人として、日常の束縛からの解放を味わうことができる。まさに盛り場は、盛り場であるがゆえに人が集まり、人が集まる場であるからこそ、さらに人が集まるようになるのである。祝祭的性格と匿名性とが、さまざまのタイプの盛り場に共通して認められる吸引力の源泉なのである。

新しい精神、新しい都市

 祝祭的生活が装飾に結びつき、匿名性の平面性に結びつけていたのが、世紀末の都市の文化の造形的表現、すなわちアール・ヌーヴォーだった。

 建築の表現は、うねりながら表面を伝わり、奥へ奥へ広がっていく装飾に埋め尽くされるものとなっていく。街路に面した建物のファサードもまた、格式を示す表現から、一枚のカンバスのような面に変わっていく。パリのアール・ヌーヴォー建築は、そうしたファサードでまず人を惹きつけた。

 しかしながら建築に現れる表面性は、個性的ではあるが、同時に人の視線を表面の裏側、すなわり造形の真の出自を示す本質にまでは行き届かせることなく、あくまでも表面に押しとどめる頑なさも秘めていた。それがアール・ヌーヴォーの持つ平面性と匿名性であり、そうした空間のつくり方は、その平面性が実は凹みながら奥に広がる表面性というものであることを教えてくれる。アール・ヌーヴォーをめぐる名称の多様さを調べてみても、そこには造形の純粋に外面的な特徴を捉えた呼び名が数多く見られるだけで、その真の内奥を教えてくれるものは驚くほど少ない。それこそが、逆に世紀末の謎めいた造形の意識を解き明かす鍵である。

アール・ヌーヴォーのさまざまな名称の一部 名称/国・地域/由来

Art Nouveau(新しい芸術)/フランス/美術商サミュエル・ビング(Samuel Bing 1838-1905)の店「Maison de l'Art Nouveau」の店名

Yachting Style(ヨット遊び様式)/フランス/美術評論家エドモン・ド・ゴンクール(Edmond de Goncourt 1822-1896)による命名

Style Guimard(ギマール様式)/フランス/エクトール・ギマール(Hector Guimard 1867-1942)

Style Métro(メトロ様式)/フランス/ギマールが1900年にデザインしたパリ地下鉄駅入口、駅舎

Style Nouille(うどん様式)/フランス/形態

Morris Style(モリス様式)/英国/ウィリアム・モリス(William Morris 1834-1896)

Glasgow Style(グラスゴー様式)/スコットランド/グラスゴー派(Glasgow School)

Paling Stijl(うなぎ様式)/ベルギー/形態

La Libre Esthétique(自由な美学)/ベルギー/1894年のグループ展を行った芸術家グループ名

Jugendstil(青春様式、ユーゲントシュティール)/ドイツ/1896年刊行の雑誌「Die Jugend」

Veldesche(ヴェルデ風)/ドイツ/工芸作家ヘンリィ・ヴァン・デ・ヴェルデ(Henry van de Velde 1863-1957)

Bandwurmstil(サナダムシ様式)/ドイツ/形態

Wellenstil(波の様式)/ドイツ/形態

Stile floreale(花の様式)/イタリア/形態

Stile Liberty (リバティスタイル、スティレ・リベルティ)/イタリア/ロンドンの百貨店「リバティ商会(Liberty)」

Sezession(分離派)/オーストリア/1897年ウィーンで画家グスタフ・クリムト(Gustav Klimt 1862-1918)を中心に結成された芸術家グループ

Modernismo, Modernismo catalán(近代主義)/スペイン/

Tiffany style(ティファニースタイル)/アメリカ/ニューヨークの宝飾店「Tiffany」


 同じように、アール・ヌーヴォーの示す装飾は、抽象的でありながら、しなやかな生命力に貫かれていて、やはり謎めいている。そこに優雅と生命力が同時に存在する様は、文化の若さの横溢によるものなのか、それとも文化の長い洗練の果てのゴールの出現を示すものなのかと、いぶかしく思う気持ちさえ誘う。

 おそらく、その答えはひとつに収斂していかないはずだ。アール・ヌーヴォーは文字通りにとれば「新しい芸術」であるが、その裏には、深く長いヨーロッパ文化が横たわっている。素知らぬ顔で、過去を奥に押しやったまま、表面に謎めいた優雅な微笑のように装飾をまとわせ、その装飾の生命力を十二分に繰り広げさせたのがアール・ヌーヴォーであってみれば、そこに若さと伝統とか、不思議に混在していても驚くにはあたらない。

 だが、こうした精神は、そのまま現代の空間の表現につながるとは言えない。一般には、近代の空間は精神や夢の産物であるよりも、技術と材料の産物と言われているからだ。本当にそのようなことがいえるのか。そして、現代の空間の根源がどのように織り合わされてできているのか。それを検討してみなければならない。

新しい素材 鉄とガラスとコンクリート

 近代建築を支えたのは新しい材料の出現で、それは鉄とガラスとコンクリートであると言われる。近代建築のアンソロジー「現代建築の黎明 1851-1919」を編んだケネス・クランプトン(Kenneth Brian Frampton 1930-)も、その第1章を「ガラス、鉄、鋼、そしてコンクリート 1775-1915」にあてている。

 新しい材料が出現すれば、新しい建築が生まれるかどうかは一概には言えないし、真に新しい材料というものが存在するのかについても疑問は残る。それでも、近代建築と新しい材料の間には、すでにはっきりとした神話ができあがってしまっている。

 近代建築が確固とした新しい建築であることはどうも疑いようがなく、その事実に気づいた建築家や歴史家たちがその源泉を求めて時代の決定要因を探し、結局、材料という要素が建築に大きな作用を及ぼしたにちがいないことに気づいたことが、〈新しい材料が生む近代建築〉というスローガンとして定着した。だが、新しい材料と言っても、ガラスや鉄やコンクリートはそれぞれ古い歴史を持っている。この三種の材料はいずれも古代から用いられていたし、古代ローマ建築は天然コンクリート造によってコロッセアムなどの巨大構造物を生み出し、中世の大聖堂は広い窓面積を色鮮やかなステンドグラスで埋め尽くしていた。

 したがって、近代建築を生み出す力と評価された鉄もガラスもコンクリートも、それだけを取り出して考えれば、新しい材料ではない。それでは何が新しい材料として意味あるものにしているのか。それは工業製品としてこうした材料をつくりだす力だ。近代建築は新しい材料によって生み出されたというが、新い材料は物質そのものが新しいという意味ではなく、生産技術が工業化された基盤の上に成立した建築ということである。これが近代建築の神話として言い換えられたにすぎない。

 そもそも、新しい材料が用いられたのは、建築物よりも建造物のためであった。19世紀には、美的・芸術的配慮の下でつくられる建築物と、物理的な構造物である建造物を区別する考え方が強かった。鋳鉄構造が最初に用いられるのは橋梁の分野であり、1777年から79年にかけて建設されたエイブラハム・ダービー(Abraham Darby III 1750-1789)設計の「コールブルックデール橋(Coalbrookdale Bridge)」がその栄誉をになることになる。コールブルックデール橋は英国の橋梁であり、この後も英国が鋳鉄構造の先駆であり続ける。1826年にはテルフォード(Thomas Telford 1757-1834)の設計した総長176メートルの堂々たる「メナイ橋(Menai Suspension Bridge)」が完成し、1869年にはイザムバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel 1806-1859)によって「クリフトン橋(Clifton Suspension Bridge)」が完成する。ブルネルは1859年にはロンドンに「ロイアル・アルバート橋(Royal Albert Bridge)」を完成している。その他の諸国では、1861年にアルフォンス・ウードリ(Alphonse Oudry 1819-1869)設計の可動橋「ナポレオンⅢ世橋(ナシオナル橋 Pont National)」がフランスに。1883年にはジョン・ローブリング(John Augustus Roebling 1806-1869)設計の「ブルックリン橋(Brooklyn Bridge)」がニューヨーク(New York City)にそれぞれつくられる。鉄筋コンクリート橋もこのころ実用化され、1894年にエヌビック(Francois Hennebique 1842-1921)設計の、総長わずか2.4メートルの橋がスイスに竣工している。こうした橋梁技術は独自の領域を確実に形成していった。しかしながらそれは、建築とはあまりに掛け離れた分野の出来事だったと言えるかもしれない。

 新しい材料、技術がもう少し具体的な建築の姿をとったのは、ガラス張りの屋根架構の分野であった。18世紀からすでにガラス張りの天窓は多くの建物に用いられていたし、鉄骨の梁を建築物に採用する例も多かった。1829年につくられたパリの「パレ・ロワイヤル(Palais-Royal)」のギャラリーには、ピエール=フランソワ=レオナール・フォンテーヌ(Pierre-François-Léonard Fontaine 1762–1853)の設計による鉄骨構造の屋根が全面的に架けられていたし、「英国国会議事堂」でさえも、外観は堂々たる末期ゴシック様式でありながら屋根はほぼ全面的に鉄骨造であった。

 鉄とガラスを組み合わせて建物とする例は温室に見出される。ジョセフ・パクストン卿(Sir Johseph Paxton 1803-1865)は1840年にチャッツワース(Chatsworth)にそのような温室をつくり、ターナー(Richard Turner 1798–1881)は「王立植物園キューガーデン(Kew Gardens)」に「棕櫚園(The Palm House)」を1847年に完成している。このような伝統が、1851年のロンドン万国博覧会会場である「水晶宮(The Crystal Palace)」を生んだのであった。

 1865年から67年にかけて、ジュゼッペ・メンゴーニ(Giuseppe Mengoni 1829-1877)がミラノ(Milano)にガラス張りのアーケード「ガレリア・ヴィットリオ・エマヌエルⅡ世(Galleria Vittorio Emanuele II)」をつくる。ナポリ(Napoli)にも1887年から90年にかけて「ガレリア・ウンベルトⅠ世(Galleria Umberto I)」が、ロッコ(Emanuele Rocco 1811-1892)によってつくられる。1876年にはルイ=シャルル・ボワロー(Louis-Charles Boileau 1837-1914)がパリの「ボンマルシェ百貨店(Le Bon Marché)」にガラスの大ドームを挿入する。そして1882年から83年には、ポール・セディユ(Paul Sédille 1836 -1900)によってパリの「オ・プランタン百貨店(Mgasins du Printemps)」にも同じようなガラスドームが導入される。これらは工学技術的に見ても大偉業であるが、むしろそうした技術的苦心の跡は注意深く隠されている。表面に現れるのは見事な装飾であり、きらびやかなステンドグラスである。

 この種の建物は建築とは認められず、たかだか建造物であると見なされることが多かったが、こうした技術が独自の領域を形成しつつあることは事実であった。1869年に完成したロンドンの「セントパンクラス駅(Midland Grand Hotel at St Pancras Station)」は、駅舎とホテルはスコット卿(Sir George Gilbert Scott 1811–1878)設計の威風あたりを払うゴシック様式の建築であったが、ホームの覆屋はバーロー(William Henry Barlow 1812-1902) 設計の鉄とガラスの建造物であり、そこには73メートルの径間を持つ世界最大の室内空間が用意されていた。1898年のパリ万国博覧会に建設されたデュテール(Charles Louis Ferdinand Dutert 1845-1906)とコンタマン(Victor Contamin 840–1893) 設計の「機械館(La Galerie des machines)」や、ギュスターヴ・エッフェル(Alexandre Gustave Eiffel 1832-1923)設計の「エッフェル塔(La tour Eiffel)」もこの系譜に属するものであるが、こうした構造技術の精華でさえも、当時はまだ建造物の域を出なかったのである。

 倉庫、ドックなどにも鉄材は大々的に用いられ、また伝統的な外観を示す教会建築でありながら、内部はほとんど鉄骨構造というような例も数多くつくられたが、それらは注意深く一般の「建築物」から隠されていた。



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2. ロマンティック・ナショナリズム(ナショナル・ロマンティシズム) [デザイン/建築]



遅れたものが先頭に立つ

 建築において、19世紀ほど様式的思考が支配的であった時代はほかにない。あらゆる時代はその時代の様式を持っているといえばいえるが、19世紀の場合には、自らの生きる時代固有の様式ではなく、過去の様式を設計の基本に据え、ある建築家はゴシックによって、そして他の建築家は古典主義によって建築を発想したのであった。

ゴシック様式
中世ヨーロッパの建築様式。12世紀から14世紀頃までの様式。円弧を組み合わせた尖塔アーチに特長がある。

古典主義
建築で古典主義という場合は、とても広い意味に使われる例が多く、古代ギリシャやローマの建築に始まり、ルネサンス建築に再び現れてくる様式全体を指す。いちばんの特長はドリス式、イオニア式などと呼ばれる柱を用いて構成することで、こうした柱の形式をオーダーと呼んでいる。

ゴシック・リヴァイヴァル
19世紀の英国、フランス、アメリカなどを中心に起こった建築の動き。中世のゴシック様式を使って建築をつくっていく傾向。英国の国会議事堂(Palace of Westminster)などがその代表作で、19世紀に中世の様式を復興しようとする流行である。英国の建築家オーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージン(Augustus Welby Northmore Pugin 1812 -1852)など。

 しかし同時に、19世紀は事実の世紀であったと言われている。観念論による一つの価値観の指摘は、事実による裏付けがない限り、印象の薄いものであった。ヨーロッパの列強が海外に植民地を次々に獲得していった19世紀は、実績こそすべての評価基準となった時代であり、建築に対しても事実による裏付け、歴史的実証性を要求した。建築家たちは、自分たちの設計図に描かれた建築細部がいかに歴史的由縁に満ちており、正確なものであるかを即座に説明できなければならなかった。

 建築の様式論は、観念的価値観の主張として論ぜられたのではなく、一見どれほど高踏的な論議と思われようとも、社会の現実に対抗するために歴史の真実、歴史上の真実を対置して見せるための論理であった。建築家の才能とは、現実のあらゆる要求に対して、正統的な様式的知識を用いて直ちに解決策をつくりあげて見せることだった。そこで要求される知識は、どちらかといえば様式的細部に対する知識、建築を構成する「部分」の正確さであり、そうした「様式部品」を組み合わせてどのような構成物をつくりあげるかは建築家の裁量に任されていた。建築家たちはそれ故に、かなり正確に過去の様式言語を駆使しながら、全体としては古今未曾有の建築物をつくり上がることになったのである。なにゆえこのような事態が生じてきたのか。

 19世紀の様式的多様さは、全体として考えるなら様式の地位の相対的下落、様式の無力化の進行を示すものであった。唯一絶対の時代様式が存在しないということは、どのような様式を用いてもその価値は相対的なものでしかないということだ。あらゆる様式は常に自己の様式的正当性を主張し続けなければならない。その時に、それぞれの様式の正当性の保証をなしたものこそ、細部の歴史的正しさだった。正しい歴史的細部を用いる限りにおいては、建築家は自らの正当性を歴史の名において主張することができる。

 つまり19世紀には、様式は建築の正当性を保証するための裏書き、いわば建築の市場的価値の保証書のような役割を持つことになっていた。様式的正確さはその建築の商品価値を高め流通性を保証する、という考え方が、多くの建築家の胸のうちを去来していた。

 しかしながら、世紀末の到来とともに、そうした「客観的」様式に対する懐疑の念が建築家たちの心の中にきざし始める。アール・ヌーヴォーの新様式の模索はそこに生じたといっていい。この波はヨーロッパ諸国に広がっていくが、それは決して単なる影響関係だけではない、文化の自覚ともいうべき感情を呼び覚ましていた。
 20世紀初頭にヨーロッパの各地、それも英仏伊の中心都市を外れた各地に現れるさまざまな個性的建築は、それまでの建築の流れに独特な刺激を与えるものが多かった。スペイン・バルセロナ(Barcelona)にアントニ・ガウディ(Antoni Plàcid Guillem Gaudí 1852-1926)、スコットランドのグラスゴー(Glasgow)にはチャールズ・レニー・マッキントッシュ(Charles Rennie Mackintosh 1868-1928)、オランダにはアムステルダム派(Amsterdamse School)と呼ばれる建築が現れ、フィンランドにはエリエル・サーリネン(Gottlieb Eliel Saarinen 1873-1950)が現れる。

 彼らはそれぞれに異なった作風を残した建築家たちであったが、作風の違いを超えて、何か共通するところが感じられないだろうか。その共通点とは、それぞれの建築家が活動する祖国の文化的伝統を、作品の基盤において建築を設計しているという点である。
 ガウディはゴシック様式を基盤にした。マッキントッシュはスコットランドの造形やケルトの装飾をもとに、アール・ヌーヴォー的造形を生んだ。アムステルダム派の建築家たちは、レンガ造の土地の伝統を精緻に発展させた。それは、よって立つ伝統は違っていても、自分たちの文化の再認識、自分たちの文化からの出発を心に秘めての活動だったと考えられないだろうか。

 歴史的様式を復興するリヴァイヴァリズムの建築が、19世紀の末になって徐々に一種の専門知識のトレードマークのような観を呈してきた時に、むしろヨーロッパ周辺諸国では、自国の文化的伝統を再認識することによって、自国の近代化の意識を呼び覚まそうとする機運が生じた。一般に、こうした動きをロマンティック・ナショナリズムと呼んでいる。
 ロマンティック・ナショナリズムとは、近代的な意識のもとに先進諸外国の理念を積極的に採り入れて、自分たちの建築の基盤を固め、しかもそこに自分の伝統を生かした造形を生もうとする動きと定義される。その点で、ロマンティック・ナショナリズムは、単に自らの過去を懐古し、振り返るだけのものではない。この言葉は北欧の今世紀初頭の建築に対してしばしば用いられるけれど、実は近代化を迎えようとする国では、多かれ少なかれ同じ意識が台頭していたのである。

 一足先に近代化を進めつつある国に対して、併呑されぬように気を張り詰めながら、自らも近代化を模索する時には、何よりも自らの文化の出自を意識し、それを拠りどころとしたくなる。ロマンティック・ナショナリズムとは、まさにそうした動きであった。
 一足遅れた諸国、そこには日本も含まれると考えていい。そうした諸国は、遅れて出発したがゆえに、かえって抜きんでた建築の表現に到達する場合もあった。

アントニ・ガウディ

 ガウディは1852年6月25日、スペインのカタルーニャ地方(Catalunya)に生まれた。産業革命の先進諸国は、その前年にロンドンで万国博覧会を開催していた。カタルーニャはスペインにあっては唯一、工業化に向かいつつある地方であり、ラナシェンサ(Renaixença)と呼ばれる近代化運動に進みつつあった。とはいえ、ガウディの生まれたこのカタルーニャは、いわゆるヨーロッパの中心ではなかった。フランスから見ればピレネー山脈の彼方であり、イスラム文化の影が色濃いヨーロッパの周縁部が、ガウディの母胎となった土地である。もしもカタルーニャが正確にヨーロッパ文化と一致する背景を持つなら、ガウディは当時のフランスや英国の建築家と同種の問題に着目して、そこに個性的な解決を与えた建築家となったことであろう。その場合においても、ガウディは十分に独創的であり続けたであろうが、それは現在私たちの目にするガウディ像とは異なったものになったはずである。そこに、彼の芸術に対するカタルーニャの影響を探ることができるだろう。

 学生時代のガウディの建築図面を見ると、彼がフランスの国立美術学校エコール・デ・ボザール(École nationale supérieure des Beaux-Arts, ENSBA)に代表される、図面技法の習得に腐心していたことが窺えるし、同時に、彼が全ヨーロッパ的なゴシック・リヴァイヴァルの波にも影響を受けていたことが見てとれる。その精緻な図面は、精緻な細部構成に対する彼の愛情を感じさせるものだ。ガウディを英国やフランスのゴシック主義者たち、ジョン・ラスキン(John Ruskin 1819-1900)やヴィオレ・ル・ディク(Eugène Emmanuel Viollet-le-Duc 1814-1879)に近づけて評価する考えは、このような初期の図面を見るなら、一理あると納得できる。しかし、彼の後の作品はあくまでも「ガウディそのもの」であり、彼独得の原理を示しているように思われる。その点を考えるためには、ここで彼の周囲の芸術運動を知る必要があるだろう。

 19世紀末にヨーロッパ中を渦巻いたアール・ヌーヴォーは、カタルーニャにおいてはモデルニスモというムーブメントに類似性が認められ、ガウディもモデルニスモの作家の代表の一人と考えられてきた。モデルニスモの動きがガウディにとって無視できぬものだったことは事実だろうし、モデルニスモ自体がガウディ抜きには考えられないものであったことも認めなければならない。一方でガウディ自身、モデルニスモ運動の枠内に収まりきってしまう存在でないことも、また、事実なのである。モデルニスモをカタルーニャ版アール・ヌーヴォーと考えるなら、アール・ヌーヴォー運動の中に常に見出されるゴシック・リヴァイヴァルからの解放という要素が、ガウディにあってはあまりに特殊な形をとっているからだ。

 ガウディをモデルニスモの建築家としてのみ捉えようとするなら、それは真にガウディ的な要素を切り捨ててしまうことになる。それでは逆に、ガウディはゴシック・リヴァイヴァルの中に座を占めることになるのか。ところがここにおいても、ガウディは特殊である。確かにガウディはゴシック・リヴァイヴァルの要素はなくはないが、彼はモデルニスモ運動の中に収まりきらないのと同様に、いやそれ以上に、ゴシック・リヴァイヴァルの枠内にも収まりきらない。
 1883年、彼はゴシック・リヴァイヴァルの建築として立案された「サグラダ・ファミリア教会(Sagrada Família)」の工事を受け継ぎ、終生この教会と関わることになる。彼は1884~91年に地下聖堂をつくり、1891年には南側の袖廊(教会の祭壇に向かって左右にのびる翼部)の壁面に着手した。また、1893年には、彼のパトロンであったグエル伯爵(Eusebi Güell i Bacigalupi, 1st Count of Güell, 1846-1918)の経営する工場の従業員のための町「コロニア・グエル(Colonia Güell)」に建つ教会の建設に着手する。ここでも工事は未完に終るが、ゴシック構造を用いながら、さらに懸垂線(カテナリー catenary)を用いて構想された図面を遺している点などに、単なるゴシック・リヴァイヴァルを抜け出た新しい意識を見ることができる。

 「コロニア・グエル」は一種のユートピア建設であったが、1900年に起工された「グエル公園(Parc Güell)」もまた、本来は公園を取り巻いて住宅地が形成されるはずの、田園郊外住宅地づくりの一環であった。この工事も結局は中途で未完のまま終ってしまう。
 一般にガウディの存在は、その特異な形態のあり方によって印象づけられるが、彼の建築観の根底には新しい建築のヴィジョンとともに、新しい社会に対するヴィジョンがあった。それは一種のユートピア思想であるが、そのユートピア思想を成立させたものは、スペインの工業都市バルセロナを覆っていた近代化への足音に対する、文化の自覚ではなかったかと思われるのである。

伝統と近代

 ガウディに限らず、近代への独自の先駆をなした建築家たちの中には、自分たちの建築を成立させる風土・文化的伝統を強く意識した人たちが多い。しかしながら、そうした建築家たちは、互いに孤高を保って歴史の中に存在し続けているようで、大きな共通点をなかなか見出し難い。ここでは、ロマンティック・ナショナリズムという光を彼らの上に投げかけることで、ひとつの文化の脈絡を考えていきたい。

 例えば、オランダにはヘンドリク・ペトルス・ベルラーヘ(Hendrik Petrus Berlage 1856-1934)という建築家がいる。彼は1897年に起工された「アムステルダムの株式取引所(Amsterdamse effectenbeurs)」で知られるが、そこで彼はロマネスク様式のずんぐりとしたプロポーションを基本としながらも、過去の様式の再利用ではなく、自由な造形によって取引所という実用的な機能を持つ建築をまとめげている。しかもそこに、石とレンガという古くからの建築材料を全面的に用い、さらに鉄骨構造によって取引所ホールの屋根を架けるなど、自由な処理を行っている。
 ベルラーヘを基点として、彼の材料の扱い方を発展させる方向からアムステルダム派と呼ばれる建築家たちがあらわれる。ピート・クラーメル(Piet Kramer 1881-1961)、ミハエル・デ・クレルク(Michel de Klerk 1884-1923)を中心とするアムステルダム派の若手建築家たちは、公営住宅にオランダ伝統のレンガを用い、表現主義的な造形と経験主義的な手法とを併せ用いた。彼らはベルラーへを超える意気込みで反発を見せることもあったが、大きな流れの中で見る時、そこにはオランダの文化的伝統の延長線上に近代建築を築いていこうとする共通性が感じられる。一方、ベルラーヘの伝統からは、デ・スティル(De Stijl)と呼ばれる幾何学的構成の建築を生むグループも生まれてくるが、その根底にはベルラーヘのような存在があったことも興味深い。

 グラスゴー派(Glasgow School)と呼ばれる特異な造形を示す作家たちの中心として、近代建築に対する独自の先駆者となったマッキントッシュも、広義のロマンティック・ナショナリズムの作家と見ていいかもしれない。
 彼の建築家としての出発点は、母校である「グラスゴー美術学校(Glasgow School of Art)」の新校舎建設のためのコンペティションに入賞することによって画される。同時に彼は家具やインテリアの作品に自己のスタイルを広く展開している。

 彼の作風は夫人となるマーガレット・マクドナルド(Margaret Macdonald Mackintosh 1864-1933)の画風に見られる曲線的抽象性を出発点にしているが、その曲線はしなやかに引き伸ばされて、緊張感をはらんだ直線になっていく。グラスゴー郊外に建つウィンディヒル(Windyhill 1889)やヒルハウス(Hill House 1902-3)などの住宅には、そうした曲線と直線の境をまぎらす精妙なデザインが見られる。1901年に彼はドイツの出版社(Zeitschrift für Innendekoration)が行った芸術愛好家の住まいのためのコンペティション(House for an Art Lover 〈Haus eines Kunstfreundes〉competition)に2位入賞し、これによってヨーロッパでの声価を高め、影響力を持つまでにいたる。
 しかし、この頃、彼はグラスゴーを飛び出し、ロンドンで活動をスタートさせるも、病に倒れて真の円熟期を迎えることなく没した。彼の才能が天才的であったことは疑いないが、その出発点にはやはり自己の、スコットランドの文化的伝統に対する自覚があったように思われる。

 同じ頃、フィンランドにはエリエル・サーリネンが登場する。1900年パリ万博の「フィンランド・パヴィリオン」は、サーリネン、ヘルマン・ゲゼリウス(Herman Ernst Henrik Gesellius 1874-1916)、アルマス・リンドグレン(Armas Eliel Lindgren 1874-1929)ら、ヘルシンキ工科大学同窓生の手になるナショナル・ロマンティシズムのモニュメントである。砦を思わせる建築の内部には、フィンランドの民族画家アクセリ・ガッレン=カッレラ(Akseli Gallen-Kallela 1865-1931)の絵画が描かれいた。ガッレン=カッレラは、もともとは写実主義の画家だったが、民族主義文化運動に身を投じて以後、ロマンティックな力強いタッチで「カレワラ (Kalevala) 」を主題とした絵をつぎつぎに描いた。民間説話からまとめられたフィンランドの民族叙事詩「カレワラ」は、当時のフィンランド人に大きな衝撃を与え、1917年のロシア帝国からの独立の文化的な牽引力にもなったと言われている。サーリネンもこうした民族主義運動の影響を強く受けていた。
 1904年に行われた「ヘルシンキ駅(Helsingin päärautatieasema, Helsinki Central railway station)」の設計コンペティションに入選したのもエリエル・サーリネンだった。彼は、自国の伝統的様式を再発見するラーシュ・ソンク(Lars Eliel Sonck 1870-1956)らの、ロマンティック・ナショナリズムの作風によってこの駅舎コンペに応募する。しかし、その案に異論が唱えられ、実際に完成したものは、様式復興の手法を脱却した方向を示す建築であったことも興味深い。後に彼はアメリカの高層建築にも一石を投じる設計案、1922年の「シカゴ・トリビューン本社屋(Tribune Tower)」のデザインコンペ応募案でも知られることになる。

 ひるがえって、わが国の建築家伊東忠太(1867-1954)も、建築表現の独自性を求めた存在として、広い文脈の中で捉えられるべき存在といえよう。彼は法隆寺建築の研究を行い、それを広く東洋建築の流れに位置づけ、さらにはギリシャ建築と結びつける視点をも示した。また、それまで造家学と名付けられていた建築学の分野を、現在の呼称に変更させたのも彼の力である。1909年の「建築雑誌」に掲載された論文「建築進化の原則より見たる我邦建築の進化」で「建築進化論」を展開。明治期における近代日本の建築界を、文明開化以前の純粋な建築の終焉、「過渡の時代即ち暗黒時代」として、日本の建築が欧化主義に陥ることを批判し、建築のスタイルは「自ら秩序的に進化して出来た」として必然的に進化主義をとるべきであると提唱した。

 建築家としての彼の作品には、京都の「平安神宮(1895 共同設計・木子清敬・佐々木岩次郎)」、東京築地の「本願寺(1934)」、両国の「震災祈念堂(1930 現・東京都慰霊堂本堂)」などがある。西欧の建築を学習し模倣し、一種の工学技師として発展させようとしてきた日本の建築界において、伊東忠太が示したヴィジョンは造形の自律的な発展を目指そうとするものがあった。
 近代建築が形態の上で、白い箱と評されるイメージに収斂していく前に、さまざまな模索がなされてきたこと、そしてそこにきわめて存在感のある建築が生み出されてきたことの意味を、私たちは忘れてはならない。



伊東忠太を知っていますか

伊東忠太を知っていますか

  • 作者: 鈴木 博之
  • 出版社/メーカー: 王国社
  • 発売日: 2003/04
  • メディア: 単行本





The Amsterdam School

The Amsterdam School

  • 作者: Maristella Casciato
  • 出版社/メーカー: 010 Uitgeverij
  • 発売日: 1996/11
  • メディア: ペーパーバック




オランダの建築 (バウハウス叢書)

オランダの建築 (バウハウス叢書)

  • 作者: J.J.P. アウト
  • 出版社/メーカー: 中央公論美術出版
  • 発売日: 1994/08
  • メディア: 単行本



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3. 「新世界」の建築 [デザイン/建築]


シカゴ派

 1776年に独立宣言を発したアメリカ合衆国は、ヨーロッパの直系の子孫でありながら、文字通りの新世界を築くべく運命づけられていた。
 1804年にシカゴ川がミシガン湖に注ぐところに、ティアボーン砦がつくられたが、これがシカゴの町に発展していった。シカゴ(Chicago)はアメリカ大陸中心部の大草原と北部の森林を後背地にした農業や林業の中心地として発展し、後に五大湖に面する交通の利便を活かした商工業都市となっていく。

 ところが1871年、シカゴには大火が起き、それまで築き上げられた都市は未曾有の被害を被る。被害額は約1億9000万ドルと言われ、約10万人の市民の住居が奪われた。被災した中心部の再建の過程で、シカゴには新しいタイプのビルが誕生する。それが一般にシカゴ派(Chicago school)と言われる建築だった。シカゴ派の建築は基本的にオフィスビルの建築として発達した。オフィスこそ、20世紀のもっとも中心的な建築であるといっていい。もともとオフィスという言葉は、大きな住宅の家事・家政関係の仕事をするための諸室(台所や食品貯蔵庫、家政執務室など)を呼ぶものであった。また、都市全体の事務機構を司る施設、市庁舎やホールなども事務所だといえるかもしれない。美術館として有名なフィレンツエ(Firenze)の「ウフィツィ宮(Galleria degli Uffizi)」は、イタリア語でオフィスのことであり、実際この建物は、コジモ1世によってフィレンツエの行政事務を行う建物として完成されたものである。

 ただ、現在一般に呼ばれているオフィスというのは、一社あるいは数社が事務を行うための建物のことで、これが近代の産物であることは間違いない。近代の都市の理念を高らかに謳いあげた宣言として、建築と都市の歴史に名高い「アテネ憲章」(1933 The Athens Charter)は、都市の要素を住居、余暇、勤労、交通、そして歴史的遺産に分けて分析しているが、その中で勤労の要素として事務所について次のように述べている。
 「工業の飛躍は、必然的に業務や、私的管理事務や商業を派生せしめる。この分野では真剣に調べたり見通しを立てたりしたことはまったく何もない。売ったり買ったりしなければならず、工場や工房と、供給者と顧客との間の橋渡しをしなければならぬ。この取引きには、事務所が必要である」(吉阪隆正訳)

 こうして生じるオフィス、つまり私企業のためのオフィスビルは近代工業の成立とともに出現してくる。各種の建物が成立してくる過程を研究したニコラウス・ペヴズナー卿(Sir 1902-1983)は、近代的なオフィスビルの持続的な歴史の始まりを19世紀初頭のロンドンに求め、その嚆矢を1819年の「カウンティ火災保険会社(County Fire Office)」だとしている。この建物は1階にアーケードを持つ18世紀風の古典主義の建築であった。この後も、オフィスビルには保険会社のものが多く、「ウェストミンスター損害保険(1832 Westminster Insurance Office)」、「サン火災保険(1841-42 Sun Fire Office)」が続くのだと、ペヴズナーは述べる。
 そして初期のオフィスビルの傑作と言われるリヴァプールの「オリエル・チェンバーズ(1865 Oriel Chambers)」が、ピーター・エリス(Peter Ellis 1805–1884)によってつくられる。このビルはオリエル=出窓という名が示すように。鉄骨構造を躯体に用いて、ビル全体を出窓で構成したものだった。

 こうして現れてきたオフィスビルを本格的に発展させるのがシカゴなのである。カウディを生んだバルセロナ、マッキントッシュを生んだグラスゴーがそうであったように、シカゴもまた、国家の商工業の中心地として拡大しつつある都市だった。

 シカゴにおける鉄骨構造のビルを確立した建築家は、ル・バロン・ジェニー(William LeBaron Jenney 1832–1907)である。彼はパリの芸術手工芸中央学校エコール・サントラル・パリ(École Centrale Paris, ECP)に学び、南北戦争時には技師として活動した。彼がシカゴで建築家としての活動を開始して最初に手掛けた鉄骨の高層ビルは「ライタービル(1879 Leiter Building)」であり、ついで「ホームインシュアランスビル(1885 Home Insurance Building)」が続く。この建物は鉄骨を用いることによって、石造のビルの1/3の重量でつくることができたといわれる。
 「ホームインシュアランスビル」が完成された年、パリのエコール・デ・ボザール(École nationale supérieure des Beaux-Arts, ENSBA)に学んだH. H.リチャードソン(Henry Hobson Richardson 1838-1886)は、シカゴに「マーシャルフィールド商会(1887 Marshall Field's Wholesale Store)」を設計する。この建物も多くの建築家に新鮮な驚きを与えた。
 さらに1891年にはバーナム(Daniel Hudson Burnham 1846-1912)とルート(John Wellborn Root 1850 -1891)によって「モナドノックビル(Monadnock Building)」が、1895年には「リラインスビル(Reliance Building)」がつくられる。これらの建物は鉄骨構造に、それまでの様式的表現に頼らぬ表現を与えたものであった。

 こうしたシカゴでの建築の発展は、構造・技術の大きな流れの中で位置づけられるべき事柄であると同時に、オフィスという、近代の社会が生み、育てていくことになる新しい空間の萌芽として理解しておくことが、この後の空間の歴史を考えるうえで重要である。
 この時代、工場労働者の働き方を観察し、工具の標準化や作業レイアウト改良で、生産性向上を実現したフレデリック・テイラー(Frederick Winslow Taylor 1856-1915)の「科学的管理法(Scientific Management)」が、アメリカ産業界に普及していく。この管理方法は家庭の家事にも応用された。クリスティーン・フレドリック(Christine Isobel McGaffey Frederick 1883-1970)やキャサリン・ビーチャー(Harriet Elizabeth Beecher Stowe 1811-896)などの女性「家庭経済(Home economics, family and consumer sciences, FCS)研究家が、家事の合理化を模索。それは家事労働をいかに快適にするかという視点にまで及んだ。こうした運動や思想も、20世紀アメリカのデザインの推進力になっていく。

サリヴァンとライト

 オフィスビルの成立は近代の都市を基本的に性格づけするものであった。「アテネ憲章」の中で、オフィスビルに関しては、「事務所は、都市内に集中し業務街をつくった」と指摘される。オフィスは都市の中心を占めるようになり、やがてそれが逆転し、オフィスビルの集中する地区が都市の中心部だと見なされるようになる。

 人々は、自分たちの住まいから、そうした都市の中心部に向かって通勤するようになる。職住分離と呼ばれる生活形態が、ここに成立するのである。職住分離こそ、近代社会の空間構造であった。一方に住居を持ち、他方にオフィスか工場などの職場を持つものが、近代都市だった。
 住居に独創を込めた空間を与えた建築家がシカゴに現れたのは、シカゴの商工業都市としての発展、シカゴ派の建築家たちによるオフィスビルの開発というエネルギーに対応する、歴史的必然であったと言えるかもしれない。その建築家の名はフランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright 1867-1959)である。

 ライトはシカゴの建築家サリヴァン(Louis Henry Sullivan 1856-1924)の下で建築家としての修行を積んだ。サリヴァンはリチャードソン同様、パリで建築修行の仕上げをした建築家であった。その下で、ライトは住宅建築の多くを手掛けた。
 彼が独立してから最初に手掛けた建築も住宅であり、それは土地の広いアメリカが生み出すに相応しい低層で広々とした間取りを持ち、諸室は互いに流れるように入り込み合い、深い軒を持つ屋根が低く張り出す形式へと完成されていった。
 プレイリーハウス(Prairie houses)と呼ばれるこの一連の住宅は、独立専用住居という、近代社会の必要とする建築の形式に、新しい概念を与えるものであった。これらはシカゴの郊外、オーク・パークやリヴァーサイドという住宅地につくられた。「ロビー邸(1909 Robie House)」は中でももっとも美しい住宅のひとつである。

 その後、彼はシカゴに「ミッドウェー・ガーデンズ(1913 Midway Gardens)」を建て、東京に「帝国ホテル(1923)」を建てた。軟弱な地盤の上に建つ「帝国ホテル」は、関東大震災を無事に乗り越えたが、第二次世界大戦後の経済成長の波の中で取り壊され、現在は犬山の明治村にロビー部分が再建されている。一部の再建とはいえ、私たちはここに彼の代表作の空間を味わうことができるのである。

 ライトの空間の本質には、独立専用住居という、実は近代社会特有の建築に対する深い共感があるように思われる。1910年にライトの作品集がヨーロッパで出版され(Studies and Executed Buildings of Frank Lloyd Wright / Ernst Wasmuth Verlag)、深い影響を及ぼすのだが、その根底にもやはり彼の建築の持つ住宅的な空間の室の高さが与えた衝撃が大きかった。
 のちに彼が設計するペンシルヴァニア州のベア・ラン(Bear Run)に建つ「落水荘(1937-39 Fallingwater, Kaufmann Residence)」、ウィスコンシン州のラシーン(Racine)に建つ「ジョンソンワックスビル(1936-39 Johnson Wax Headquarters)」なども、同様に人間的なスケール、言い換えれば住宅を出発点とするスケールを持つものだと言えよう。同時に、彼の建築には細密な装飾的要素が大きな特徴をなして設けられている。彼の空間は近代建築によって獲得された自由な空間と、細部の豊かさを両立させることによって、時代を超えた存在を人々に感じさせてくれる。
 細部の重要さについては、彼がサリヴァンから学んだところといえるかもしれない。サリヴァンは1895年の「ギャランティビル(Guaranty Building, Prudential Building)」、1899年の「カーソン・ピリー・スコット百貨店(Carson, Pirie, Scott and Company Building)」などによって、シカゴ派のオフィスビルの形式を完成させるとともに、精妙な装飾細部の豊かさを示していた。そこには彼が修行時代にパリで得たボザール風の細部への細やかな才能が生き続けていた。

 サリヴァンからライトへの建築の流れは、アメリカの建築がヨーロッパから学び、自らの表現を見出していく軌跡だったと言えよう。一方、アメリカ国民の間では建国100年、1876年の独立百年祭のときに再び「ヨーロッパ」が注目された。「メイフラワー号子孫協会」のような愛国者団体がいくつも設立され、アメリカ国内では自分たちのルーツ、英国への熱が高まっていく。人々は英国植民地時代のコロニアル様式やクイーン・アン様式にあこがれ、その影響からアーリーアメリカンと呼ばれる家具スタイルが生まれた。アーリーアメリカンとは、植民地時代から共和制時代へと脈々と受け継がれたアメリカの伝統ではなく、愛国心と英国への夢がつくり出した、19世紀末の新しいライフスタイルだった。

アメリカン・ボザール

 アメリカ建築の自己表現の原点には、トマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson 1743-1826)がいる。アメリカの独立宣言の起草者として知られ、アメリカ合衆国第三代大統領となった彼は、1774年から79年までをフランス大使としてパリに過ごし、フランス古典主義建築に深く共鳴した。彼は建築が一国の文化的価値の反映であり、社会の非常に重要な秩序であることを信じ、建築が美しく、理想に溢れたものであれば、それは国民の趣味を向上させ、世界の尊敬を集めるであろうことを信じた。

 若い国には、もともとの建築的伝統は存在しない。そこで必要とされるものは明快な建築原理であり、古典主義のシンメトリーを基本とする構成法は、新天地に空間の秩序を与える際にはもっとも拠りどころとなるものであった。
 ジェファーソンは1809年にほぼ完成した自邸「モンティチェロ(Monticello)」、1796年に竣工したリッチモンド(Richmond) の「ヴァージニア州議会議事堂(Virginia State Capitol)」、「ヴァージニア大学(1817-26 University of Virginia, UVA)」などに彼の建築への理想を込めた設計を行った。

 政治家としてのジェファーソンは、1785年に西部への入植のための土地条例を通過させ。1789年から94年にかけては国務長官としてワシントン市(Washington, D.C.)の基礎を固め、「国会議事堂」の設計競技を行った。
 彼が通過させた土地条例は、新しい西部の地域を1マイル刻みの東西南北のグリッドに分割して、土地の開発の単位とするものであった。
 都市を計画していく場合には、こうした国土全体にわたる格子状の土地区画に結びつく計画を立てることは困難だったが、限定された区域を格子状の道路の組み合わせによって区画していく方法がしばしば採用された。これはバロック的都市計画と呼ばれるもので、都市を目に見える形で把握するのに都合の良いものであり、19世紀のパリでナポレオン三世の下、オースマン(Georges-Eugène Haussmann 1809-1891)によって大々的に試みられたものであった。

 アメリカではよりいっそう人工的な構成が表に現れたが、1791年にピエル・ランファン(Pierre Charles L'Enfant 1754-1825)によってつくられたワシントン計画、1807年にウッドワード(Augustus Brevoort Woodward 1774-1827)によってつくられたデトロイト(Detroit)計画、1811年に策定されたニューヨーク計画、そして1821年にラルストン(Alexander Ralston 1771-1827)によってつくられたインディアナポリス(Indianapolis)計画など、みな格子状と放射状の道路による土地割を基本とするものだ。このような都市計画はフランスのボザールで試みられたバロック的で壮大な都市計画の主砲と同じ血脈を引くものといってよく、その点でもジェファーソンの理想に合致する精神を示していた。ジェファーソン自身は、18世紀英国の建築評論家ロバート・モリス(Robert Morris 1702-1754)の「建築書(Robert Morris' Select Architecture)」や、同じ英国で影響力の強かったイタリア16世紀の建築家パラーディオ(Andrea Palladio 1508-1580)などを研究しており、イタリア、フランス、英国の建築の伝統はこうして徐々にアメリカに根付き、アメリカ化していったのであった。

 フランク・ロイド・ライトの軌跡は、そうしたアメリカの伝統が真に育ったことの証左と言っていい。そこに、他のヨーロッパ周辺諸国に見られたようなロマンティック・ナショナリズムからの出発とは異なりながらも、ある意味では自らの伝統を築く上での同質性が見出されるのではないだろうか。こうした点は、日本の近代建築の歴史の中には存在しなかったようにも思われる。



モダン・デザインの源泉―モリス/アール・ヌーヴォー/20世紀 (1976年)

モダン・デザインの源泉―モリス/アール・ヌーヴォー/20世紀 (1976年)

  • 作者: ニコラウス・ペヴスナー
  • 出版社/メーカー: 美術出版社
  • 発売日: 1976
  • メディア: 単行本





建築タイプの歴史〈2〉ホテルから工場まで

建築タイプの歴史〈2〉ホテルから工場まで

  • 作者: ニコラウス ペヴスナー
  • 出版社/メーカー: 中央公論美術出版
  • 発売日: 2015/04/24
  • メディア: 単行本





アテネ憲章 (1976年) (SD選書)

アテネ憲章 (1976年) (SD選書)

  • 作者: 吉阪 隆正
  • 出版社/メーカー: 鹿島出版会
  • 発売日: 1976
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Studies and Executed Buildings by Frank Lloyd Wright

Studies and Executed Buildings by Frank Lloyd Wright

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: Ernst Wasmuth Verlag
  • 発売日: 1998/12/01
  • メディア: ハードカバー





パラーディオ「建築四書」注解

パラーディオ「建築四書」注解

  • 作者: アンドレア・パラディオ
  • 出版社/メーカー: 中央公論美術出版
  • 発売日: 1997/01
  • メディア: 単行本



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4. 超高層への道 [デザイン/建築]


機械装置エレベータ

 紀元前1世紀のローマ人建築家ウィトルウィウス(Marcus Vitruvius Pollio c. 80–70 BC, - c. 15 BC)の「建築論(De architectura)」によれば、エレベータの原型というべき昇降機は紀元前に既に存在していたという。こうした古代の昇降機の動力は人力、畜力、水力などで動いていた。

 エレベータが建物のために実用化されるのは19世紀のこと。それは機械装置であっても、いわゆる生産のための装置ではない。しかも、大型の特殊なタイプを除けば、大半のエレベータはひたすら人間を運ぶための機械、人間のためのサービス機械である。

 しかし、この機械は人間の生活環境を大きく変化させた。エレベータの出現により、それまでは地上10メートル程度だった人間の生活の場が、一挙に100メートルを超えるものに拡大したのである。現代文明は機械力によって支えられているが、目に見えぬ形で、表面で脚光を浴びずに力を振るう機械の本質を、エレベータは見事に示している。エレベータは無言のサービス機械であり、味気なさを人に意識させることもなく、従順な裏方として大きな反発を招くこともなかったが、結局は生活全体のあり方を大きく変えてしまった。

 エレベータを今ある姿にするうえで重要な貢献をしたのは、エリシャ・グレーブス・オーチス(Elisha Graves Otis 1811-1861)である。彼の生涯を辿ることが、エレベータ発明の歴史を解き明かしてくれることになる。

 オーチスはアメリカのハリファックス(Halifax)に生まれ、19歳の年にトロイ(Troy)の町に出て、そこで5年間ほど建築業に携わった。ところが病気になってその仕事を辞め、次に馬車などを製造する仕事を始める。この仕事は割合順調に進んだが、1845年に再び体調を崩しオルバニー(Albany)の町に移った。ここでは寝台製造会社の主任技術者となって3年間働き、念願かなって小さな機械製造所を開くまでになった。そこでは自分の発明でタービン式水車を製造していたが、彼の工場が動力源にしていた川が市の所有になり、またもや彼は仕事を失ってしまう。こうして1851年に工場をたたんだ彼は、かつて勤めていた寝台製造会社にもう一度勤め直すことにした。そして転機がその翌年に訪れる。

 寝台製造会社がヨンカーズ(Yonkers)の町に新工場を建設することになり、オーチスはその工事を担当することになった。工場には、これまでも見られた、スチーム・エンジンでロープを引っ張るタイプの物品昇降用のエレベータが設置されることになっていた。しかし、このままでは危険だと考えたオーチスは、ロープが切れた緊急時にカゴの両側に爪が出てガイドレールの歯に食い込み、自動的に落下を防ぐ装置を考察する。これが近代的エレベータ誕生の契機となった。1852年のことだ。オーチスのエレベータに対して特許が認められたのは1861年1月15日、この年の4月8日、彼は神に召される。

 事業としてのエレベータ製造を受け継いだのは、息子のチャールズ(Charles Rollin Otis 1834-1927)とノートン(Norton Prentiss Otis 1840-1905)の兄弟だった。長兄のチャールズは1835年に生まれ、13歳の時から父の工場で働いていた。15歳の時には、父の働く寝台製造会社の技術者として、既にスチーム・エンジン専門家になっていた。父の歿後、1860年代に増え続けてきたエレベータの注文に応じつつ、その改良を続けた。

 オーチスエレベータの出現以来、エレベータは将来性のある新設備として注目されるようになった。エレベータがあれば、人は高いところにも容易に移動できるのである。同じ頃、建物自体も高層化の技術を徐々に獲得しつつあったから、エレベータは高層建築に不可欠な設備としてその力を振るうことになった。エレベータなしでは、5階建て以上の建物は日常の使用には耐えなかったのである。

 1867年には、パリの博覧会でレオン・エドウ(Félix Léon Edoux 1827-1910)という人物が水力式エレベータを展示する。これはただちに英米の建築に採用されるところとなった。1880年代には、エレベータにとってもうひとつの重大な転機があった。ヴェルナー・フォン・ジーメンズ(Ernst Werner von Siemens 1816-1892)による電力式エレベータの完成だ。この新エネルギーの機械は1889年にニューヨークのビルに採用され実用化した。1890年には、ロンドン南郊のシデナム(Sydenham)に移設されて常設の展示場となっていた、かつての1851年の万国博の会場「水晶宮(The Crystal Palace)」に、この電力式エレベータが採用されて英国への初登場となった。

 日本の電動式エレベータは、1890年に完成した12階建ての「凌雲閣」(設計・ウィリアム・キニンモンド・バートン William Kinninmond Burton 1856-1899)に採用されたものが最初だ。しかしエレベータの知識に乏しい当時の監督官庁に危険と判断され、一般の利用は早々に禁止されてしまう(1914年に再設)。

 この後、国際的には、1890年代のエレベータは自動化を目指して発展を遂げていく。1892年にはボタン操作のエレベータが出現し、1894年になるとこうした簡単な操作によって運転できる、住宅用エレベータがつくられるようになり、1895年にはエスカレータが発明された。完全なフルオートマチックのエレベータが出現するのは1949年のことだ。

スカイスクレイパー時代

 エレベータの出現によって建築は一気に高層化する。アーネスト・フラッグ(Ernest Flagg 1857-1947)の設計によってニューヨークに建てられた「シンガーミシン・ビル(Singer Building)」は、1906年から8年かけて建設された187メートルのビルであったし、1911年から13年にかけて建てられたキャス・ギルバート(Cass Gilbert 1859-1934)設計の「ウールワース・ビル(Woolworth Building)」は約240メートルの高さ、ウィリアム・ヴァン・アレン(William Van Alen 1883-1954)設計の「クライスラー・ビル(1929-32 Chrysler Building)」は246メートルの高さ、そしてシュリーヴ・ラム・アンド・ハーモン(Richmond Harold Shreve 1877-1946, William Frederick Lamb 1893-1952, Arthur Loomis Harmon 1878-1958)設計の「エンパイア・ステート・ビルディング(1930-31 Empire State Building)」は、380メートルにも及ぶ高さを誇っていた。「ウールワース・ビル」には26基のエレベータがあり、「エンパイア・ステート・ビル」には58基ものエレベータが設けられている。こうして、第二次世界大戦前の、いわゆるスカイスクレイパー(超高層ビル)時代が花開いたのであった。

 だが、人間が高さを夢見たのは技術力の完成よりも以前のことであった。バベルの塔の神話を持ち出すまでもなく、人は常に高さに意味を見出し、高さを夢見続けてきたと言えるかもしれない。近代になると、そうした高さへのイメージが建築や都市と結びついて再び浮上してくる。その一つが未来派だ。1909年にイタリアの詩人マリネッティ(Filippo Tommaso Marinetti 1876-1944)がパリのフィガロ (Le Figaro) 紙上に「未来派宣言(Manifesto del futurismo, Futurist Manifesto)」を発表。マリネッティの宣言の下に集まった画家たち、カルラ(Carlo Carra 1881-1966)、バッラ(Giacomo Balla 1871-1958)、ルッソロ(Luigi Russolo 1885-1947)、ボッチョーニ(Umberto Boccioni 1882-1916)、セヴェリーニ(Gino Severini 1883-1966)らは、未来派画家の一団を形成していく。日本では1909年に森鴎外(1862-1922)により「未来主義の宣言十一箇条」として文芸雑誌「スバル」(1909-1913)に紹介された

 未来派の美意識は、マリネッティの次の言葉の中にもっともよく示されている。
 「ひとつの新しい美によってこの世界の光輝がずっと増大したことを我々は宣言する──速度の美しさがそれである。ちょうど地雷探知機は探しているものの爆発音を伴ってこそ美しいように、いくつもの巨大なシリンダーがあるために車体機構の美しさの引き立っているレーシング・カー、あたかも榴霰弾が炸裂しつづけているかのように大きな音を立てる自動車、それはサモトラケのニケよりも美しいものだ。」

 このイメージは、未来派の建築家アントニオ・サンテリア(Antonio Sant'Elia 1888-1916)によって都市のイメージとして描かれた。1913年から14年にかけて彼が描いた未来の大都市は、多くのスカイスクレイパーによって埋められ、高速の自動車道路が何層にもわたって交錯している。

 ここでは、高さとスピードが、あたかも相互に変換可能な要素であるかのように、二つながら都市を支配している。空間を上空に向かって伸ばしていくことは、人間の能力を無限に象徴するものだと夢想されたのである。サンテリアは第一次世界大戦に出征し、ただひとつの建物も残さずに戦死してしまう。ヨーロッパにその後、高さへの夢が現れるのは第一次世界大戦後、1920年代に入ってからのことである。

 ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe 1886-1969)というドイツの建築家が、1921年に鉄とガラスのスカイスクレイパーのイメージを提示する。それは曲面の壁を持つ表現主義的な超高層ビルで、そこには既に現代の社会を支配する空間が用意されていたといっていい。このヴィジョンは、均等に柱の並んだ高層ビルに、ガラスの外壁を外側から皮膚のように覆うもので(カーテンウォール、帳壁, Curtain wall)、この鉄骨の構造とガラスの皮膜によってミースはすべてのオフィス空間は供給されると考えたのである。その空間は何層にも重ねることができ、またどのような大面積にも広がることができると考えられた。この無限に広がりうる空間を彼は、ユニヴァーサル・スペース(Universal space)=普遍的空間と呼んだ。

 ミース・ファン・デル・ローエの唱えた普遍的空間は、20世紀のオフィス空間を支配する空間となっていく。建物の外皮、つまりカーテンウオールの意匠はさまざまにヴァリエーションを生んだし、建物の平面計画もまたさまざまに変化を生じたが、それは結局はユニヴァーサル・スペースの範囲内での変化に過ぎなかったのである。

 サンテリアの描いたイメージからミース・ファン・デル・ローエの描いたイメージの間には、実は千里の径庭が横たわっていた。

 サンテリアの、そしてアメリカで実現されつつあったスカイスクレイパーは、高さが社会の視覚的な象徴として意味を持つ、イメージの塔であった。それは社会の力、未来の力、人間の力を目に見えるかたちで表現しようとするものだったといえるのである。

 その点では、ゴシック様式、1920年代のアールデコ様式、あるいはボザール風(様式建築を教えた美術学校風)と表される古典主義様式などでつくられたニューヨークのスカイスクレイパーも、前衛建築家がイメージする未来派の高層ビルも、時代精神を超高層ビルに込めていくという点では、共通するものを持っていた。つまり、高さは表現としての意味を発していたのである。

 ところがミース・ファン・デル・ローエのイメージは違う。ここでは、高さは表現の手段としては用いられていない。高さそのものが抽象化されているのである。ミース・ファン・デル・ローエに至って、高さは「塔」から「積層された空間」へと意味を変えたのである。

 こうした変化が、過渡的なかたちで現れたのが、1922年に行われた「シカゴ・トリビューン」の社屋設計競技だった。応募案の中にはさまざまな歴史的様式を用いて建物を高さの象徴──「塔」として表現する案と、ヴァルター・グロピウス(Walter Adolph Georg Gropius 1883-1969)やエリエル・サーリネンのように、抽象的に積層された空間としてまとめあげる案が混在していた。コンペでは「塔」としての表現に優れたレイモンド・フッド(Raymond Mathewson Hood 1881-1934)の案が採用された。しかし時代は徐々に積層空間型の高層ビルの方向へ進んでいく。その後のオフィスビルの形態にもっとも大きな影響力を与えたのが、ドイツからアメリカに移住したミース・ファン・デル・ローエだった。

 第二次世界大戦後、必要以上の(と考えられるようになった)象徴性を込めたスカイスクレイパーに替わって、抽象的な四角い箱としての超高層ビルが成立するようになる。SOM設計事務所(Skidmore, Owings & Merrill, SOM)が設計した「リーヴァ・ハウス(1950-52 Lever House)」や、ミース・ファン・デル・ローエ設計の「シーグラム・ビル(1956-58 Seagram Building)」などに代表されるニューヨークの戦後のビルは、戦前の塔のような姿をまとった高さへの夢を払拭した近代のスカイスクレイパーだった。そこには、社会の基本的な空間となったオフィスを、大量に供給するという姿勢があった。

 オフィスの空間は、20世紀の後半になってますますその重要性を増してくる。第二次世界戦後の世界は、こぞってユニヴァーサル・スペースのオフィスを受け入れた。社会全体の構成も、初期の産業革命期のように工場や生産の現場に比重のかかったものから、資本や商業の活動にその重心が移っていき、一般の人々の仕事といえば、デスクワークが中心となっていった。

オフィスビルの新しい表現

 かつて、高さが素朴に夢を表現できた時代があった。しかしながら、抽象的な積層空間型のビルは、どれほど高層であろうとも、それだけで夢を表現できるとは限らなくなってしまった。

 スカイスクレイパーは、かつての表現とは異なった空間表現を必要とするようになったのである。スカイスクレイパーという偶像を「破壊」するものにもっとも影響力のあったミース・ファン・デル・ローエは、かつての偶像に替わった超高層ビルに、新しい表現を与える方法も提示した。「Less is more(少ないほど多い)」という彼の言葉は、近代建築の表現を考えるうえでのキーワードとなった。

 鉄とガラスでつくられる超高層ビルを鉄とガラスの建築として表現するために、彼は最大限の注意を払って建物の構造を目に見えるようにする。鉄骨は火災に遭えばアメのように曲がってしまうので、厳重に耐火被覆を施さなければ超高層ビルには使えない。ところがそうした被覆で隠されてしまったのでは、鉄とガラスのスカイスクレイパーは、外から見た時にどのような構造なのかが、分からなくなってしまう。

 そのため、彼は建物の外装に細い鋼材をわざわざ装飾のように用いて、垂直部材の形を示す。これによって、目に見えなくなってしまった耐火被覆の中の鉄骨を、抽象的に外部に表現するのである。
 近代建築が抽象的な空間を創出するようになり、建築家は抽象性を再び目に見える具体的な造形に表現し直さなければならなくなる。ミース・ファン・デル・ローエは、そうした建築の進路を自ら正確に歩んでいた。

 だが、そうした歩みは1970年代から徐々に変質していく。その変化を見るためにはビルの内側の間取りや空間に対する考え方を見ていく必要がある。

 第二次世界前のスカイスクレイパーは、建物の中心部分に何台ものエレベータを備え、そこに便所や階段室や給湯サービス室なども集中させた、コア・システムと呼ばれる平面計画によって設計されてきた。オフィスの執務空間はそうしたコアの周囲に設けられ、それは外の光景を眺められる窓で終わっていた。

 そうしたコアを中心にしたオフィスビルに対して、このコアを二つに分離して、二つのコアによってサンドイッチされた中間部を自由な執務空間にしようとする平面計画が提唱されるようになる。この考え方は、コアの間の空間の広さを、コア同士の距離のとり方によって自由に変化させられるわけで、それまでのコア周囲に執務空間を張り巡らせて一巡させる考え方よりも、空間の自由度を増すものであった。オフィスの空間は、可能な限り走らが少なく、しかも論理的には無限に広がりうるという、限定性の極小な方向に向かって発展を続けていくのである。

 しかしながら、時代の流れは超高層ビルの中に変化を求めて、大きな吹き抜けを設ける方向に進む。こうした巨大な吹き抜けを内蔵するタイプのビルは、アトリウム建築と呼ばれる。アトリウムとは、古代のローマ住宅に見られる中庭のことである。つまりアトリウム建築とは、大型ビルの内部に中庭的な外部空間を取り込んだものといえるのである。アトリウム建築の先駆としては、ケヴィン・ローチ(Eamonn Kevin Roche 1922-)が設計したアメリカの「フォード財団ビル(Ford Foundation Headquarters)」などがあり、世界の動向もそうした外部空間を取り込んだビルへと向かっていった。

 20世紀の後半に至って、オフィスビルの空間は外部空間を取り込んだものに、言い換えれば都市空間をそのまま内蔵したビルへと向かっていったのである。現在では、オフィスビルの内部にさまざまな商業施設が採り込まれ、外部空間がそのまま内部化された例は数多く見出される。オフィスビルは、20世紀始めのユニヴァーサル・スペースの獲得という課題を達成すると同時に、ビル全体を都市化してしまう方向へと歩みだしているのである。これは、巨大なオフィスビルの中にいれば、ほとんどすべての都市機能を享受できる方向への発展である。

 ビルを都市と化してしまうこと、これが巨大な近代建築の目指す方向だと思われてくるのである。だが、こうした傾向がもたらすものは、結局のところ何なのか。オフィスビルの都市化という方向性は、逆にいえば都市のオフィス化ということにならないであろうか。高さへの夢は、今や姿が見えなくなってしまった空間の積層となって、私たちの頭上を覆いかねない。



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